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    スターリン   

​   シベリア抑留で強制労働

世界の三大虐殺者

  ヒットラー 1700万人(内ユダヤ人:600万人) スターリン2300万人 毛沢東7800万人

 

    世界の三大虐殺者

  ヒットラー 1700万人(内ユダヤ人:600万人) スターリン2300万人 毛沢東7800万人

                                               
スターリン略歴

・1878 グルジアのゴリで生まれる。父親は靴職人、母親は農奴出身、貧しい家系であっ

    た。

・1894 神学校入学。マルクス主義に傾倒したことで退学となる。成績はトップであった。

・1903 革命運動で3年のシベリア流刑。

・1904 日露戦争(26才)。

・1906 1回目の結婚(28才)、翌年妻が病没。

・1908 逮捕流刑、以後10年間逮捕と流刑を繰り返す。

1914  第一次世界大戦(36才)。ロシアは交戦国の中で最も多くの犠牲者を出した。

1917   ロシア革命、レーニン政権が成立。

1919   2回目の結婚(40差9)。妻(19才)

・1922  スターリン(44才)、共産党書記長就任、レーニン発作で倒れる。

・1924 レーニン死去。スターリン後継となる。

・1926 政敵トロツキーの地位を剥奪する。1929年国外追放、1940年逃亡先メキシコで暗

    殺。

・1926 コルホーズ(集団農場)ソフホーズ(国営農場)はやがて失敗。

・1932 農業集団化で農民の多くが餓死者となる。各分野で大粛清始める。

・1932 妻、スターリンと口論の末自殺。

・1937  母ケケが死去。多忙理由に欠席。

・1939 第二次世界大戦、国際連盟でソ連追放される。

1941  日ソ中立条約、ドイツ軍のソ連侵攻。いくつもの少数民族を追いやり粛清。

・1945 第二次世界大戦で独・伊・日敗れる。米・英・ソのヤルタ会談。シベリヤへ大量
    流刑。

・1949 中華人民共和国が成立、中ソ友好条約締結。

・1950 ソ連、原子爆弾の開発成功。

・1952 長年仕えてきた秘書や警備員を逮捕・粛清。病気で猜疑心強くなる。

・1953 死去(74才)。病気説、暗殺説等。

スターリンの政策
 

・レーニン亡き後、後継となってからは、革命を終えて次は組織作りへと着手していく。権力を担う組織

 作りであった。政敵トロツキーを追放し、次々と幹部を粛清しだしたのである。

 

・農業のコルホーズ(集団農場)とソフホ―ズ(国営農場)は国民の理解を得られずに失敗。

 その責任を関係者や農民を大粛清へとつなげた。

                              集団農場                             工業化

 

  ・農業集団化で追われた大多数の農民は国内で多数にのぼり、行くあてと食糧難に陥り飢餓国民が大量

  に増えていく。その数百万単位であった。

 

・やがてスターリンは3つの課題を背負って権力を維持しょうとした(1920年~1940年)
 

 1. 対外関係~資本主義の打倒計画=ヨーロッパの他の国に革命が起こらず失敗。

 2. 経済政策~農業の集団化と国営化を打ち出したが、ロシアも近隣共産国も失敗。

 3. 農民政策~共産党の革命政策は国民の多くの農民に理解されず協力が得られず失敗。

 

・ことごとく失敗したスターリンの政策は、現場の責任であると責任転嫁をして粛清した。現代も昔も成

 功は自分の力だが失敗は他人、同じ事がいつの世もまかり通るのであった。

    

・対外、経済、農業政策が失敗に終わり、大粛清や大虐殺で多くの国民の命を奪って、権力争いで負い目

 を受けることになるが、農業集団化の失敗に代わって推し進めていた急進的工業化の成果が出て来てソ

 連と言う国家が第二次大戦を戦い抜く世界強国に変貌していった。

 

・急進的工業化の成果は、金属の国、自動車の国、トラクターの国として発展する。このほか重工業の基

 盤 して、国内各地に水力発電所、国内鉄道網とシベリア鉄道、冶金都市形成、磁器の都市作り、炭田作

 りと、成果が表れてきた。農業ではようやくコルホーズとソフホーズが成果を上げてきた。金持ちと資

 本家を追いだし、中農と貧農を再装備し、トラクターと農業機械の導入で穀物が大量に収穫され、この

 頃のヨーロッパ経済が生き詰まっていたために輸出が増え大成果につながる。

 

 

 

 

 

 

                     シベリア鉄道

 

・1930年代からソ連は変貌した。農業国から工業国へ、電化と金属の国へ、機械とトラクターの国へと転

 化したのである。

 

・ドイツが1941年、ソ連に襲いかかってきた。ここでスターリンは試練を迎える。むしろそれは今までの

 粛清や大虐殺などの強硬な国内政治に対する審判の時でもある。

 

・この頃ソ連は、ドイツをはじめヨーロッパの資本主義国家全てを敵とみなしていた。隣国ポーランドや

 他国の 問題扱いが山積し、ドイツの先制攻撃を予期できず、独ソ戦では手痛い攻撃をうけた。

 

・この独ソ戦で、スターリンは二人の息子を失っている。一人はドイツに捕虜となったが、捕虜交換を言

 うドイツには呼応せず、助けることはしなかった。

 

・冬将軍の到来で、ドイツは自らソ連から撤退し敗戦へと連なり、スターリンは国際舞台へと登場してい

 く。

 

・次々と手を打つ。周辺の東欧諸国(リトアニア・ラトヴィア・エストニア)の取り込み、フインランド

 まで手を伸ばし、国際連盟から追放まで受けた。

 ドイツと日本の連合がソ連に矛先が向かうと不利なので、日本と中立条約を結ぶ。後に日本は敗戦後の

 ソ連から反故にされ、北方領土やシベリア捕虜へと損害が及んだことは、スターリンの政治力と言わざ

 るを得ない。


スターリンの第二次世界大戦

 

・そして第二次世界大戦でドイツに勝利し、アメリカ、イギリス、フランスと足並みを揃えて

 先進国の仲間入りを果たす。

      

  ドイツ軍侵攻         第二次世界大戦        米英ソ首脳会談

 

 

   第二次世界大戦前(1,939年)の関連国人口
 

  ソビエト連邦  総人口 1億9600万人  1945年戦争終了時の犠牲者数 2800万人

  ドイツ            6900万人                  900万人

  アメリカ           1億 3100万人                     42万人        

  イギリス           4700万人                  45万人

  フランス           4100万人                   55万人

  日本             7100万人                  312万人

 

・日ソ中立条約の、米英ソによる相談の結果破棄。ドイツに対する勝利の後にソ連は対日戦

 に参加するという事がアメリカ、イギリスは了解していたのである。日本の敗戦に追い打   

 ちがかけられた。

 日本の不運、事前に北方領土問題は米英ソで決められていた。

 

・スターリンは南樺太千島列島に加えて、北海道北部(留萌市 - 釧路市を結ぶ線から北東

 側全域。留萌市・釧路市については分割せずソ連が占領)をも併合しようとする案をト

 ルーマンに申し入れていた(これに対し、トルーマンはこの提案を拒否した)。

 またその上に英米軍を中心とした連合国軍最高司令官総司令部に対し、北海道全体と東北

 一帯の分割占領を提案したものの、これは即座に英米から拒否された。

 

・第二次大戦で、ソ連の犠牲者数2800万人は関係国で最大であったが、独裁者のスターリン

 は事実を国民に隠した。ソ連体制と彼の権威を守るためであった。

 

・スターリンは、敗戦国のドイツと日本が復讐してくると真剣に考えていたという。「日本

 人は負かされても必ず立ちあがってくる執念深い民族だ。日露戦争でソ連は経験済みだ。

 復讐心の強い国民なのだ。」と言う。更に、アメリカは日本やドイツに占領された事がな

 いから分からないのだ。ソ連や中

 国は日本と戦争をして負けた事が有るので用心深い。だからこれを阻止するために見せし

 めもあり多くの捕虜をシベリアに抑留するのだという。

 

・しかし、大戦後のソ連は西欧諸国以上に疲弊していた。国土は無残、多数の人命損失によ

 る労働 力不足、原爆開発の負荷、食料不足でこの時期の死者は100万人~200万人であっ

 た。

  スターリンの女性関係
 

  ・2度の結婚で子供が3人。その他に多くの愛人がいた。

  ・1910年ロシアの南部の街に流刑中、女主人と不倫をしており、隠し子を儲けている

  ・北極圏の街に流刑中、13歳の少女と2年間関係を持ち、2人の子供の父親にもなっている。

  ・スターリンは3人目の妻としてローザ・カガノーヴィチと結婚したと見られている。

​                          ローザ・カガノヴィチ

  ・スターリンはほかに愛人も作ったが、彼女らがスターリンの女性関係の派手さや残忍さを見

   かねて批判すると、彼女らはいつの間にか姿を消したり、不審な死を遂げたという。

スターリンの食事
 

        シャシーク             ウォッカ            ボルシチ           グルジアワイン

 

・スターリンは美食家。特に出身地のグルジア料理を好んでいた。串焼き羊肉(シャシリーク)、ピラ

 フ(肉飯)、家鴨の焼肉が大好物だった。また、ニジマスが、コーカサスからモスクワまで、特別の容

 器に入れて空輸された。好んだ料理は魚、ボルシチ、キャビア、スープ、ピラフ、ウオッカ、ジャム入り

 紅茶、コーカサス出身なのでその地方の酒は一晩に1本空にする酒豪であった。

・夕食は8時~9時、常に仲間達と豪勢な食事をしていた。国民が飢餓で苦しんでいてもである。

スターリンの趣味

 

 

・モスクワの自宅の温室には熱帯や温帯の植物が植えられ、スターリンはその世話をするの

 が趣味であった。

・趣味の一つとして、映画鑑賞があった。アメリカ映画をよく取り寄せさせていた。 

 

・読書は政治活動をするうえで必須であった。

スターリンの日常生活

                     スターリンのパーティ                       赤の広場

 

・スターリンは昼頃に起床し、午後から仕事を始めていた。そのため仕事が終わるのは午前1~3時の

 間が多く、さらに、仕事が終わってから部下を呼び出しパーティを開くということを頻繁に行っていた。

 側近は普通に仕事をしていたので、仕事が終わってからスターリンの呼び出しをくらい、朝まで付き合

 わされるということがしばしばあり、寝不足な部下が多かった。

 

・権力の絶頂期、よく側近を呼んでパーティを開いていたが、食事は、最初に採るということは絶対にせ

 ず、部下に毒見をさせてから食べていた。パーティーは明け方まで続くことが多く、うとうとする出席者

 がいるとスターリンはトマトを投げつけたという。

 

・スターリンが赤の広場など公衆の面前に姿を現す時は、徹底的に秘密警察により観客の身体検査が

 行われた。

スターリンの資産
 

・保有財産:世界のGDPの9.6%(に相当する国の権力者)当時世界経済の9.5%を 

 占めたソ連の保有財産は、2014年では約7.5兆ドル(約936兆円)に相当。スターリ

 ンがすべて保有していたわけではないが、強大な力であらゆるものを意のままにし

 ていたことは事実である。

スターリンの読書法
 

・スターリンは読書家であった。2万冊以上の蔵書を持ち、このうち5500冊には「スターリン

 蔵書」の印が押されていた。ジャンルはマルクスエンゲルスカウツキーレーニンなどの 

 社会主義関係、カントフィヒテヘーゲルなどの哲学書、文学書、歴史書、百科事典、外

 国語辞書、軍事書、雑誌、パンフレットから、ジノビエフラデックなどの粛清した政敵の著 

 書、ヒトラーの『我が闘争』、マキャヴェッリの『君主論』、毛沢東の著作など多歧に渡った。

 これらはクレムリンの住居や別荘にきちんと分類されて置かれていた

 

・読書の目的は、国家統治に関わるあらゆる分野に通じたいと考えていたようである。高等

 教育を受けていなかった彼は、独学で知識を貪欲に吸収していった。

 

                    (ドイツのヒットラーも独学で15,000冊の蔵書を所有し、深        

                    夜、早朝まで読書をしていた事から共通性がある)

生家は今・・・

 

        スターリンの生家                  現在はスターリン博物館

 

・生家跡に1957年オープン。本館には写真、肖像画、彫像、手紙などの遺品等が飾られており、

  スターリンのデスマスク(死後、顔の型をとったもの)もある。

・ゴリの住民の評価は二分されると言う。一つは町に対しては何も貢献していないと言う。
 一つは英雄の出た町だと言う評価である。

子孫は今・・・

 

 

                      スターリンの孫とネットでアップ

・スターリンには息子2人と娘1人がおり、娘のスヴェトラーナ・アリルーエワは、1967年にアメリカへ

 政治亡命した後に娘(スターリンの孫)エカテリーナを産む。

・米国人ウィリアム・ピータース、母にスターリンの娘スヴェトラーナ・アリルーエワをもつ44歳のクリ  

 ス・エヴァンスが孫であると報じられている。ネット上を駆け巡ったスターリンの孫娘の写真が報じ 

 られている。

スターリンの家族

スターリンの父      母     最初の妻     二番目の妻  


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       長男                       娘ノスヴェェトラーナ

 

 

・出生についての秘密として、貧しい家庭であったため、母は学校に通わせるために金持ちの商人の家に家政

 婦となり、その時にその主人と関係が出来てスターリンは生まれたという説もある。

・靴職人の父親は酒飲みで粗暴、何度も母子は暴力を受ける。そのことによるのかスターリン自身も暴力的、悪

 賢く、尊大に振舞う、無慈悲等々、幼友達が後に証言。

・スターリンは27歳の時、最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エ

 カテリーナは翌年25歳で病没した。スターリンは息子のヤーコフに対し厳しく接したため、ヤーコフは拳銃自殺

 試みたが失敗した。独ソ戦で長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜になったとき、人質交換には一切応じなかったた

 め殺害された。スターリンはさすがにその晩は食事はしなかったという。

 

・2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリーと娘のスヴェトラーナ生まれた。

 スターリン40才、妻は18才であった。結婚して13年後、ナジェージダは友人の祝宴の場で夫と口論になったあ

 と、自分の寝室に遺書を残して遺体で発見された。ピストル自殺であった。

 

・次男はスターリン死後に失脚して身を持ち崩した。極度の酒好きがたたり、1962年アルコール依存で死ん

 だ。

・娘のスヴェトラーナは可愛がられたが、ユダヤ人の最初の恋人を「イギリスのスパイ」とみなされてシベリアに

 追放されている。結局彼女はソ連を捨てて1967年にアメリカに亡命している。

・自分の肉親にも冷酷なスターリンであったが、母親のエカテリーナには頭が上がらなかった。彼女は息子の計

 らいでカフカースの宮殿に住んだが、小さく粗末な一室で質素な生活を続け、グルジアのジャムや果実を毎年

 のように息子に送り、息子と息子の妻に手紙をよく書いていた。

 

・1937年スターリンは政敵から身を守る事や、国内問題を解決するのに余裕がなかった。この母親のケケが故郷

 のグルジアで亡くなる。葬儀に参列は不可能であった。彼は代わりに国防相を名代として送り、立派な式を執り

 行わせた。私事より統治を優先せざるを得なかった。


スターリンの晩年
 

大戦後は中国、北朝鮮が共産主義のもと、ソ連伺いで何度もスターリンを訪れるようになるが、ス

 ターリンの老獪な政治力に振り回されることになる。

 

・1950年、ソ連は待ちに待った原子爆弾の実験に成功した。場所はソ連邦のカザフスタンであった。

 スターリンは原子爆弾や核兵器を開発する前にアメリカが攻撃してくるのを恐れていた。

 

 

 

          原子爆弾実験成功               フルシチョフ

 

・1952年、スターリン(73才)は既に統治能力を喪失していた。打ち出す政策がことごとく一貫性を失っ

 ていた。そして自分はもう引退するつもりだと、いきなり言いだして他の指導者を驚愕させた。そして

 猜疑心で、秘書や警備責任者、医師団がテロリストだと決めつけて逮捕させた。

 

・1953年死亡(74才)。病気説、暗殺説が現代でも囁かれている。

 

・スターリンの死後、ソ連の指導者はスターリンの意志の元、マレンコフ、フルシチョフ、ベリヤの3人体

 制となった。

 

・国民はスターリンの死の後、涙した。

 スターリンの死を悲しんだだけではなく、一つの辛い時代が終わった、悲劇的な時が終わったという

 安心感か、喪失感であった。

 

・後継者となったフルシチョフが次々とスターリンの過激な政策を改め、犠牲者の救出を始めた。よう

 やく他国と足並みをそろえることが出来るようになった。

 フルシチョフはスターリン批判を発表した。
 

  1.スターリンの粗暴さ  2.大粛清の誤り  3.無能による多くの犠牲

 

・国内の意見の一つに、ソ連がヒットラーに勝てたのはスターリンがいた為だという意見もある。

​ あい

  スターリンの虐殺でロシアのイメージは悪いが、観光で訪れると   

 印象が違う。

 2009年に訪れた時に作成したホームページが↓

          「ロシアより愛をこめて」


革命家を目指す

                                    
           
  若き日のスターリン           スターリン   

 

・若い時(24才)のグルジアでの革命活動で、シベリアへ流刑となった。この事から退路を断って職業革命

 家の道を行く事になる。学歴もない、頼れる親戚や知人もいない、人生に何の展望もない、金もない事から

 の結論 であった。この時期にレーニンと出会う事になる。

 

・レーニンと会ってからはその後、古参の有力幹部の一人として活躍するようになる。これよりレーニンを師

 と仰ぎ見るようになる。

 

・現金輸送車襲撃事件。当時のロシアで、革命家の中では「収奪」と呼ばれ、始終繰り返されていた。事件で

  3000人を超える人が死傷していたが、共産党理論の革命のもとそれは美化されていた。スターリンは頭角を

  現わし、リーダーの一人であった。レーニンからも認められるようになる。

  資金集めのためにはロシア国内に収まらず、スイスや隣国まで足を延ばしていた。国家挙げての強盗団とで

  も言えようか。

 

・収奪事件や過激行動で逮捕、流刑、脱走を5年間続いた。その結果心身に影響が出て、人を見る観察眼が鋭

  くなり近寄ってくるものが敵か味方か何時も判断する思考癖が付いた。

 

・流刑と逃亡を繰り返す中で、民族問題、党組織の在り方等を論文に書いたり、理論構成を考えていくうち

 に、レーニンや幹部の目を引くことになり、レーニンの推薦で中央委員へ任命され幹部の道を登って行く。

当時のソ連の状況
・1914年第一次世界大戦終結、長引いた戦争で国は疲弊し、300年続いたロマノフ王朝が瓦解した。大

 戦で死亡者は300万人、軍人の行方不明者は285万人、その他で、ロシアは交戦国の中で最も多

 くの犠牲者を出 した。

 

             

     ロマノフ王朝             レーニン         トロッキー

                                               

 

・第一次世界大戦の後のレーニンによれば、この大戦は資本主義が帝国主義の段階に成長転化した後に

 勃発した帝国主義戦争であり、帝国主義とは「死滅しつつある資本主義」である。今やヨーロッパ諸 

 国は資本主義の次の段階である社会主義の前夜であると云うのである。

 

・1917年レーニン政権の一員となり、民族問題担当、食料調達担当となる。ここでスターリンは抑圧的

 に振舞い、ロシア周辺の同盟国の少数民族を粛清、虐殺。また食料調達で強引に農民から食料を略奪し多

 くの農民の餓死者を出した。レーニンから信頼が厚いトロッキーと比較されるのでスターリンは焦ったの

 である。

 

・レーニン、スターリンの民族問題は共通している。隣国のウクライナ、ウズベキスタン、カザフスタン、

 アゼルバイジャン、グルジア、フインランド等が独立、自決権主張を主張したり、ドイツと同調すること

 を恐れて多くの国民を大量粛清したのである。

 

・レーニンの晩年、スターリンが力をつけてきたことから遠ざけるようになる。権力闘争の始まりである。

 レーニは言う、スターリンは純粋のロシア人ではないのだと。

  「スターリンはあまりにも粗暴すぎる。書記長としては許容できない」と自分が後継者として指名してお

 きながらレーニンは反省したのである。レーニンが死ぬ2年前である。


スターリンの人間性
 

・スターリンは通り名、「鋼鉄の人」と言う意味で自分で名をつけた。本名はヨシフ・ジュガシ

 ヴィリ。

・スターリンも最初の妻もグルジア人、二度目の妻がアゼルバイジャン生れ、何れもソ連ではな

 い。この辺からもソ連と周辺国の複雑さが後に発生する。スターリンが生まれたゴリの町は、酒

 と祈りと喧嘩に明け暮れる悪名高い場所であった。

​ 

               ゴリの街                   神学校

・革命運動に参加するようになったのは、東欧地区にいた時、ロシア人マルクス主義者の地下グ

 ループと関係した時からと言う。

・神学校当時は規律違反、教師に挨拶をしない、教室で騒ぐ、言い争いなど、札付きの問題児で

 あった。

 

・当時のロシアはツアーリ(皇帝)の圧政下、革命的ロマンティシズムに突き動かされたいたス

 ターリンは、体制にやみくもに挑戦する直情怪行の若者だった。

・スターリンは、帝政時代において少数民族であり一般のロシア人より格下と認識されていたグル

 ジア人である。貧困層出身で身長が低く、加えて自身がグルジア人であるというコンプレックス

 は相当に強く、劣等感の強い人物であった。

 

・裏切り者を絶対に許さない不寛容さと、人間を殺すことをなんとも思わない冷酷な性格の持ち主

 であった。

・粛清した政敵の写真を見て悦に入りながら、故郷のグルジアワインを愛飲していたという。

・冷酷無比な存在として恐れられたスターリンとの電話の際、将軍たちはたとえスターリンが目の

 前にいなくても誰もが直立不動、「気をつけ」の姿勢になったとされる。

 

・スターリンの下に友人として招かれた人間がスターリンと一緒に座っていると、そのあとにどこ

 に連れて行かれるのか、すなわち自宅に帰れるのか、投獄されるのか、見当もつかない、という

 ことがあったという。

・後に自分は常に命を狙われていると思い込むようになった。日常生活では毒殺を極度に恐れたた

 め、彼が口にする飲食物は全て秘密警察の管理下にある専用の農場や養魚場で採取され、専門家

 により入念に検査された。

 

・晩年には後継者となるフルシチョフなど有力な部下達の忠誠心を疑い、彼らの部屋を全員秘密警

 察に盗聴させている。

・権力の絶頂期の頃のスターリンは、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになっ

 た。スターリンの質問に「No」の返事をすると粛清であり、曖昧な返事でも粛清であり、返事を

 即答できなければ粛清であった。

 

・会議中に停電が起こり、電気がつくと、スターリンの姿が見えず、探してみると机の下で小便を

 流しながらブルブル震えていたという臆病さを表す逸話もある。

・晩年には認知症も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった。軍隊が攻め

 てきても、2週間持つほどの重装備であったという。

 

・スターリンは宿敵であるヒトラーを高く評価し、親近感を抱いていたと言われている。

・「額に汗して働かぬ人々」というのが、長年スターリンが持っていたユダヤ人観であった。

・スターリンは人前で演説するのを好まなかった。演説は率直で分かりやすかったが、思考の飛

 躍、警句、迫力に欠けていた。

 

 

           ヒットラー                        ユダヤ人

・グルジア人である彼の目と眉毛は釣り上がっており、「アジア人」という渾名を付けられてい

 た。

・身長は163cm、少年時代に馬車に轢かれた後遺症から、左腕は右腕より短く、左手は服の袖にし

 ばしば隠れるようになった。歳を取るにつれて歯科衛生も悪化し、死んだ時の彼自身の歯は3つし

 か残っていなかった。

 

毛沢東を小物扱いしており、革命の熱気が高まればすぐ溶けるという意味合いで「マーガリン

 産主義者」などと呼んでいた。1949年12月の初対面では、毛を冷遇し、政治的な意見の対立も

 あって両者は打ち解けなかった。

スターリンと宗教

 

 

 

  

            

       教会                         神父

 

・スターリンは、グルジアの神学校で勉強していたころに隠れた無神論者となっている。
 

・スターリンが革命家になった原因は、グルジアの神学校で「人を馬鹿にするような制度とイエズス会

 的方法」に反発したからと言っている。このことがトラウマとなり、ロシアでの宗教界虐殺とつながっ

 ているかも知れない。(虐殺者のヒットラーも、スターリンも、毛沢東も宗教を信じない点では共通し

 ている)

 

・スターリンによる第二次世界大戦中の教会に対する禁止令は、彼が天から受けたと信じた指令であ

 るという。
 

・政教分離の名の下に行なわれた一連の宗教抑圧政策は過激となった。当時、ロシア正教会は3万

 の教会、163人の主教、6万人の司祭、そして数千万の信徒を擁していた。
 1918年から1920年までの間に少なくとも28人の主教が殺害され、数千人の聖職者が殺される

 か、あるいは投獄された。またほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数

 千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれている。
 結局、1930年代の10年間に3万人から4万人のロシア正教会聖職者が銃殺されるか、もしくは収

 監されたと見られている。尼僧は暴行され、女性は共有財産としてもてあそばれ、放縦と劣情がは

 びこった。当時活動していた3万の教会が8000以下に激減した。

スターリンの人種論
 

                         ・1941年から1949年までの間にソ連領内に住む少数民族

                         約330万人がシベリアと中央アジア共和国へ強制移送さ

                         れたと推定されている。移住させられた人間の43%が

                         染症栄養失調で死んだという。

                         ・ソ連は多民族国家で必ず民族間で問題があったが、ス

                         ターリンは単に抑圧し、隠蔽、粛清、虐殺、強制移住して

                         いたにすぎなかったことを暴露していた。

スターリンの粛清と大虐殺


        粛清された人々               大粛清の墓碑

・スターリンは度々、党内から餓死者多数の責任を問われるが強硬に関係者を粛清し乗り越えよ 

 うとする。そこには自分が権力者として生き延びなければ、社会主義国家もまた生き延びること

 は無いという考えであった。

 

・1930年代は、スターリンによって指導部幹部の粛清が起こりNO2やNO3が次々と暗殺された。

 幹部のみに限らず、幹部の妻達も犠牲者となり処刑された女性は数万人であった。

 

・1936年~1938年の2年間だけでも、政治的理由で逮捕された者は134万人、そのうちの68万人

 が処刑されている。恐ろしきはスターリン、粛清と虐殺、暗殺はとどまるところを知らない。

 何故このような政策を取ったかというと、ヨーロッパ先進国とソ連を比較した時、農業・工業等の

 遅れが原因であり、国力を倍加しなければ来るべく戦争に太刀打ちできない、国民の犠牲は仕 

 方がない、何れ戦争が来た時に国民の理解が得られると考えていた。

 

・公開されたソビエトの公文書と公式のデータによれば1937年には353,074人、1938年には

 328,612人(歴史家はほぼ700,000人と見積もっている)もの「普通の」ソビエト国民…労働者、

 農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金受給者、バレリーナ、乞食が処刑された。

 

・「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後と

 される。

 

・大戦後の1947年頃からのスターリンは、アメリカとの東西対決が押し迫ってきており、体力が維

 持できなくなりつつあった。側近たちも指導力と判断力の衰えを感じていたのである。彼は既に

 70歳になろうとしていた。スターリンは衰えから、側近たちが力をつけないために2000人以上

 を逮捕し、処刑している。この時期に次代のエース、フルシチョフが台頭してくる。

 

・スターリンの猜疑心は歳を重ねるごとに強くなる。身の保全と権力維持のためである。猜疑心は

 国内にいるユダヤ人にも向けられた。最愛の娘の結婚相手がユダヤ人であった。結局その結

 婚を破たんさせ、その他多くのユダヤ人を排斥した。

 

杉本良吉(演出家、日本共産党員、女優岡田嘉子の愛人。1938年1月逮捕、1939年銃殺)など

 ソ連亡命中の共産主義者を中心に10~20名前後が粛清されたと見られる。

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