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毛 沢 東

沢東

世界の三大虐殺者

 
 ヒットラー 1700万人(内ユダヤ人:600万人) スターリン2300万人 毛沢東7800万人

若い時の毛沢東                     晩年の毛沢東

毛沢東の略歴

・1893年 5人兄弟の三男として生れる。地主で厳格な父によって、勉学にも励んだ。 

1919年   26歳の時、初等中学校で歴史教師となる。
        父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していた。

1921年 28歳の時、第1回中国共産党全国代表大会党大会)に出席。

・1949年  56才、毛沢東共産党主席、北京で中華人民共和国成立を宣言。同年ソ連訪問

・1951年 人民解放軍、チベットに進駐。

・1952年  新民主主義社会の建設を目標にしていたが、突如、ソ連型社会主義をモデルとした。

・1956年  チベット動乱発生。

・1958年  大躍進政策開始。農業工業の大増産政策だが失敗で辞任。

・1960年  スターリン批判や対米政策をめぐって、フルシチョフと不仲となり中ソ対立が深刻化。

・1966年  文化大革命開始。劉少奇主席、鄧小平らを失脚させる。

・1969年  林彪党副主席、クーデターに失敗し逃亡中に墜落死。

・1976年  毛沢東死去(82才)、その後の指導者は華国鋒、鄧小平、江沢民、胡錦濤、習金平

       ​紅 衛 兵

​               文化大革命

紅衛兵と文化大革命の評価

 農業工業の大増産政策である「大躍進政策」の失敗によって、国家主席の地位を劉少奇党副   

 主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、民衆を扇動して政敵を攻撃させ失脚

 に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。

 これにより1億人近くが何らかの損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした

​          大躍進政策

 独裁化

・国家主席に就任した毛沢東は、自己に対する反対勢力を粛清して 

 いく。多くの知識人から共産の独裁化を批判されると、毛はこれ

 を弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少くとも全

 国で50万人以上を失脚させ投獄した。

・毛は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年

 大躍進政策を発動。

 

・農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を

 奪い、無謀な生産目標に対て実際よりも水増しされた報告書が

 中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍政策は

 失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓

 死者を出した。

・このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツアドルフ・ヒトラー

 やソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降、

 毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独

   裁的な傾向が強くなっていく。

​文化大革命で多くの寺院が破壊され、チベット仏教も粛清された

 宗教感

 

・共産党政権が支配後間もなく、毛沢東は仏教史の専門書がないことに驚き、関係機関の責任者を

 呼びつけ大きな声で叱ったそうだ。知名度の高い学者達を集め仏教史を研究するように指示し、

 具体的にいつ頃までに本を出さなければならないのかを命じたという。要認の一面当時有。

 

・毛沢東思想の主要概念には、人民戦争理論暴力革命・武装闘争肯定と平和革命否定、階級闘争

 絶対化であり、仏教や他の宗教感とは異なっていた。

 

・宗教は毒だ。宗教は二つの欠点を持っている。まずそれは民族を次第に衰えさせる。第二に、それは国

 家の進歩を妨げる。チベットとモンゴルは宗教によって毒されてきたのだと、低い声で

 ささやいた。

 幹部とクーニャンによるダンス・パーティ

 幹部の待遇

・1942年、日常生活は共産党幹部とその家族子女には特別化と等級制度があった。幹部は小食 

 堂で食事をする。さらに特別食堂と準特別食堂が有り区別。軍幹部は中食堂、兵士は大食堂の

 五クラスが有った。食事の内容も勿論違う。制服も3つの差別規定があった。幹部の子供の登

 校には警護員が付き添い。幹部の家にはコック、警護員、保母が付いた。

・食事後、週末には毛沢東がダンスパーティを開催し、幹部達はクーニャン(若い娘)の腰を抱き、

 夜通しダンスをし各部屋に連れ込んでいた。

美人小説家 「丁玲」 と元女優の「江青」は毛沢東をめぐって争う

 女性関係

・美貌の小説家「丁玲」は毛沢東の龍愛を一身に受けたが、女優出身で毛の4番目の妻「江青」の出

 現で地方に飛ばされる。

・毛の女性関係が出世レースと権力維持闘争においてマイナスに響かなかったのは、自分が色を好
 むことをあまりに堂々と周囲に公言し、女性関係を隠さなかったからだと云われる。むしろ側近
 が世間体を気にして、毛沢東の乱脈な女性関係を 隠してくれるようになったという点だ。
 「女好きならば、派手な女遊びは隠さず、堂々と!」何と豪勢な毛沢東である。

​ 最初の妻、羅一秀と2番目の楊開慧

 3番目の賀子珍と4番目の江青

 私生活と家族

・毛沢東は表向き4度の結婚をしている。最後が悪名高い江青である。

・1949年の地方からいよいよ北京に居を構えた頃は毛は56歳、身体頑健、精力旺盛であった。

 内戦の頃からの癖で昼間は寝て、夜に仕事をする癖で、党と政府の指導者である当時の劉少奇、

 林彪、朱徳、周恩来、鄧小平らは毛に合わせなければならなかった。深夜、早朝の会議は何時も

 であった。

・毛は自室のベッドに横たわり、ナイトガウンのまま、延々と会議を開いていた。

 

・昼は会議、夜は芝居で、劇場での毛の席は中央の7列目と決まっており、6列目より前は彼の視

 線を遮らない様に全て空席としていた。

・毛は観劇・映画鑑賞の後は、ダンスパーテイが待っている。美人揃いの慰問団が大勢いると、そ

 の中から気にいった美女を見つけると、そのまま部屋に連れ込んで一夜を共にする。

 

・毛沢東は気楽にあちこちで女性と一夜を過ごし、次々と子種を残した。男の子は「烈士の後代」

 として野戦軍区に送り扶養した。女の子は「烈士の子女」として、政治的に問題のない家庭に扶

 養費を出して預けた。だが、毛沢東はこの子たちを一切認知しなかった。果たしてどれだけの子

 供がいたのであろうか、多分本人も知らないであろう。

 

・毛沢東の妻である江青の意地悪ぶりや、毛沢東の人としての愛情や良心の欠如ぶりが窺える。

・毛沢東の私生活は簡素ということになっていたが、国民には平等と禁欲と節倹の美徳を説いてい

 た。しかし実際は毛沢東だけが快楽や贅沢を可能な限り手に入れていた。

・週に何度もダンスパーティを催し、若い娘を自室に連れ込んでいた。

 

<参考>

チンギスカンは数百人から数千人の子供をもうけた可能性があるといわれ、世界中に同じ染色体を持つ人が現在、約1600万人いることが判明したとされている。

孔子の子孫は200万人と言われている。

 

・現在の中国は、抑圧、憎しみ、階級、マルクス主義、毛沢東思想が未だに生きている。台湾に移

 った国民党の中国統治時代とどのように違うのか? 識者は言う。単に王朝の交代だけであると。

 

 

・毛の出身地湖南では、毛の悪行をふせて、歴史をねつ造して英雄にして、若者に教育していると

 云う

・晩年、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。1975年には白内障も

 悪化し、肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となった。

 

・毛沢東の私生活における実像は好色、不潔、猜疑心が強く、公的にはやはり権力の亡者であった。

・毛沢東は公衆便所を使わなかった。理由は臭うからである。そのため衛士(従兵)はよく穴掘り

 を命じられていた。

・虎が自らの牙を磨くだろうか」と語ったと言われ、終生歯を磨く事はなかった。歯周病や梅毒に

 感染したが、歯科治療を嫌がり、投薬のみで症状を抑えていた。後年になるに従い、衛生観念を

 無視するようになり、日に一度濡れタオルで体を拭く程度であった。その状態で少女との性交を

 好んでした為、主治医の手記には耐えがたい匂いがした、と幾度も書かれている。

 

 

家族

 

 

 

 

 

・毛沢東14歳で、17歳の羅一秀と最初の結婚。2番目の妻は楊開慧、3人の子供。

 3番目の妻は賀子珍、6人の子供。4番目の妻は江青、1人の子供。その他愛人は多数。

 

・毛沢東の孫娘、資産額は約800億円。毛沢東の孫、孔東梅さんが富豪ランキングで242位に。孔

 さんは毛沢東の先妻、賀子珍(ホー・ズージェン)さんの娘、李敏(リー・ミン)さんの娘にあ

 たる。

・毛沢東の次男の毛岸青の子供で、孫の毛新宇は現在少将である。

 

 

資産

2016年、話題のパナマ文書で習近平氏から毛沢東まで大物の名が続々 中国は慌てて隠蔽に走り、共産党機関紙系の社説まで削除したが真相は藪の中。

毛の出身地湖南の生家には訪れる人が多い

 毛沢東の孫娘 孔東梅 と 毛岸青

鄧小平の苦労が続く

 政策

・1958年大躍進政策開始(農業工業政策)。しかし結果は、過大なノルマによる中国経済の大

 混乱と、推計3,000万人から5,000万人の餓死者を出す大失敗に終わり、国家主席を辞任した。

 毛沢東に代わって劉少奇鄧小平などが修正主義的路線による経済再建を目指すが、権力奪還を

 企図する毛沢東の動きがこの後の文化大革命を引き起こすことになる。

・文革は自分の失政により失った権力回復の手段であり、4人組はその傀儡でしかない。

 

・毛沢東は経済や科学に精通していたわけではなく、非科学的な偏見や素人の思いつきで政策を実

 行したので、建国後は失政続きであった。しかし最後まで非を認めなかった。

・猜疑心が強く癇癪もちの性格、不眠症、性生活旺盛、江青夫人や高官たちとの確執、ソ連への反

 感と独自の東洋的思想などで中国を指導した。

 

・毛は、日本の中国侵略は国民党を台湾に追いやる事に繋がりその結果「親日・媚日」となる。

 日本軍と蒋介石の国民党を戦わせ、その後に毛が天下を取る計画であった。

・2005年、「反日の高波」で日本のレストランや在外公館が襲われた事件があった。当時は中国政

 府が扇動したと日本では思ったが、実はそうではなく民衆の中国政府高官への不満が募っただけ

 であった。

 高官の家庭や妾宅には電気製品、ディジカメ、ピアノ、は全て日本製であり、騒ぎが大きくなる

 のは困っていた。民衆の勢いを日本政府が歴史を直視していないからと矛先を変えただけであっ

 たと云われている。

 

・地方に出向く時は専用列車。11両編成、寝室、書斎、会議室、専用食堂がある。

・列車や飛行機利用の時は、国内のその地域の、他の列車、飛行機は全て停止されていた。

 

・別荘は40~50か所、これは3年間に建造が集中していたが、この時期は何千万の国民が蛾死し

 た時期であった。

・毛沢東の中国共産党が日本バッシングする目的は、共産党の自らの醜い歴史を美化し、ひたすら

 歴史教科書を改ざんする事に長じており、日本はそれに惑わされていると云われている。

 

・1950年、スターリンの指導の元に、毛と金日成は朝鮮戦争を始める。しかし参戦しないと思わ

 れたアメリカが韓国に味方した。この戦いで毛は自国民に、アメリカを打ち破ったと、その後3

 年間言い続けた。

・毛沢東は最初の共産国であるソ連のスターリンには振り回されていた。

 大量粛清(虐殺)

 

・毛沢東は建国までは優れた革命家であり指導者だった。しかし、革命後は、共産党の主席という

 より、毛王朝の皇帝であり、文革で中国は間違いなく、中国の歴史をまちがいなく20年以上停

 滞させたと云われる。

・「人口の半分を失っても中国にとって大きな損失にはならない。人間ならいくらでも生産できる

 のだから」と豪語していた。

 

・スターリン、ヒットラー、毛沢東の三人には、世襲でもなく末端から這い上がってきたこれら独

 裁者たちには共通項がある。謀略と陰謀、狡猾さ、そして残虐さだ。そして“出世と女の力学”で

 ある。三者の中でもっとも“お盛ん”であり、出世や権力闘争に女性が絡んでいたのはなんといっ

 ても毛沢東だった。

・チベットは昔から中国の領土であると言い、強引に軍隊を差し向け抵抗するものは虐殺し、強引

 に中国領土とする。

 

・毛だけでなくスターリンも2度の結婚だけでなく、それ以外にも多くの愛人が存在し「酒池肉林

 の世界を楽しんでいた」という。ただ例外なのがヒットラーだ。敗戦が決定的となり一緒に自殺

 したエヴア・ブラウンとの婚姻関係の他には、女性関係の話はほとんどない。だがそれにも理由

 があった。「ヒットラーは戦争中の怪我で生殖機能を失ったとの噂があった」。そのため女性との

 関係が極端に少なく、一部評伝では同性愛説まで指摘されている。

 

 

・毛をはじめとする共産党幹部は昼間眠って真夜中に仕事をするという、いわゆる夜型の習慣を革

 命当時に身につけた。こうした毛の執務習慣に合わせ、昼間鳴き騒いで毛沢東の睡眠の邪魔をす

 るという理由で、中南海で雀退治が行なわれた。幹部職員には1日何羽というノルマが課せられ

 た。それでも北京市内の雀が入ってくるので、市内全部の小中学校の児童・生徒に雀捕りの号令

 が掛けられた。

 しかし余りにも雀退治をしすぎたために、当然の報いとして害虫による作物の被害が蔓延し凶作

 に陥った。毛沢東の横暴ぶりがうかがわれる。

 

 

・鄧小平は長く毛沢東に仕えてきたが、意見の相違で何度となく毛によって外されており生き延び

 た数少ない一人である。周恩来もまたその一人である

 毛が死すや否や「四人組」が粛清され、変わって毛の粛清から生き延びていた鄧小平が「改革・

 開放」を唱え、「市場経済」へと中国を資本主義化へと導く。ただし、政権は幹部達の都合のよ

 い共産党組織はそのままである。

 

・中国の文芸理論家「胡 風」は毛を批判したために24年もの間獄中生活を強いられた。毛の意

 に背くものはすべて排除された例である。多くの文化人が被害にあっている。

・1942年当時は特に文学者を次々と処刑した。

 

・毛は、毛沢東党主席に次ぐ第2位の、第2代中華人民共和国主席(国家主席)劉少奇から権力

 を奪還するために文化大革命時期に台頭した全国的な青年学生運動「紅衛兵」運動を起こす。

 

・毛沢東が劉少奇から権力を奪還するために紅衛兵運動を起こした時に、いち早く呼応したのは高

 級幹部の子弟であった。それは毛の反抗を恐れて親を守るためであったが、やがて親子共々粛清

 され僻地に流刑となるものが多かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・21世紀の現在、北京市に変わったレストランがオープンした。それは「紅衛兵レストラン」

 入口には女の子が褐色の軍服、頭に布の軍帽、足に解放靴、腕に紅衛兵の腕章をつけた姿である。

 客には敬礼をして迎える。いわゆる紅衛兵ごっこのお遊びである。メニューも凝っている。その

 名は「大衆独裁」「ノンポリ道路」「資本主義志向」等々、毛沢東も草葉の陰で苦笑いしていそう

 である。

 

・近年、中国人の多くは外国人から紅衛兵の事をどう思うかと質問されると、一応に次の如く応え

 るそうだ。

 「身を切られるような苦痛を味わったが、過去の事を多くの時間とエネルギーを割いて思い起こ

 す必要はない。過去を振り返るより、改革・開放の道をひた走る事だ」と優等生の答えが用意さ

 れているという。

 

・当初の軍幹部で劉少奇、鄧小平、楊尚昆の子供達の紅衛兵子女たちは粛清され、北京市内を流浪

 し、物貰いをする羽目となった。鄧小平の長男は自殺しようとしたが失敗してしまった。劉少奇

 の長男は内モンゴルに逃げたが、汽車に轢かれて死んでしまった。

・紅衛兵運動は毛沢東によって計画され、利用された。顧みると、全ての若者が被害者であった。

 

・1950年代、北京大学の学長「馬寅初」は当時の中国の人口が5億であったので、人口抑制が必

 要と言ったが、経済・その他にうとい毛沢東はこの優秀な学者を粛清してしまい、「産めよ増や

 せよ」と言い、今日の人口14億人にしてしまった。

 

・1960年代の文化革命の毛沢東時代、土地革命運動で紅衛兵は中国に無数にあった大小の墓を破

 壊してしまった。台湾と国交回復して、台湾人が墓参りに来ると偽の墓を作り、ニセの遺骨でだ

 まして商売するのが流行ったと云う。中国の弟筋に当たる北朝鮮が、拉致家族に渡したニセの骨

 は中国に見習ったのである。これらは中国の「骨灰商売」と言われている。

 

・台湾の、当時の首相「連戦」氏が中国に墓参りした時、墓は空っぽであったという。それを承知

 で中国は案内したそうである。

 

・北京の天安門にある毛沢東の遺体は、とっくに腐敗しており今ではプラスチック製の複製品を信

 徒に拝ませている。毛崇拝である。

・1930年当時、蒋介石の国民党と思われた4400人が死刑とされた。

チベット侵攻

紅衛兵レストラン

​毛沢東の書斎と愛読書

 読書 

・社会主義の指導者でありながら社会主義経済に関する本を殆ど読まなかったという。彼が好んで

 読んだのは『資治通鑑』などの中国古典であった。

 

・毛沢東は中南海の書斎に膨大な量の書籍を運び込ませたが、中国の正史である『二十四史』を読

 み、研究し続けた。側近の1人である李鋭は「王朝の変遷に興味を示した」と回述している。三

 国志時代、明から清への移行、6・7世紀の南北朝時代を特に研究していた。

 

・毛沢東はとても本が好きで邸宅には約70万冊の本が収集されており、これらの本は文革で迫害

 した人民から取り上げたものだとする資料がある。

・故毛沢東主席の著作に関する原稿報酬が、2001年当時で1億3121万元(約19億7000万円)で

 あったことが明らかになった。

 食事

・味覚の嗜好は終生変わることがなかった。専ら故郷の脂濃い味付けの料理を食し、ロシア訪問時

 もわざわざ彼専用の料理人を連れて行き、現地の味には一切眼をくれないほどであった。

 

・大躍進政策の時、「人民の苦しみを分かち合おう。」といって肉食を禁じたが、好物の魚料理を増

 やしただけであった。ほどなく肉の多い洋食中心のメニューに変えてしまった。彼のみが贅沢な

 料理を食べ、調理人や使用人はおろか家族にまでも粗食を強いる有様であった。

 

・紅焼肉(ホン・シャオ・ロウ)、なぜ有名かというと湖南省出身の毛沢東の大好物だったから。

 毛沢東はこの紅焼肉とトウガラシがあれば自分は生きて行ける、と言ったそうだ。豚のバラ肉を

 ショウユで煮た変哲のない料理なのだ。

 

・毛沢東風の豚の角煮は、田舎風の味付けが好みだったという。

・四品料理とスープは毛沢東の基本料理。野菜、魚料理、炒め料理、肉料理、共通なことは薄味。

 一日9g以内が毛沢東の基準。戦争時期から最後まで守っていた。

 

・毛沢東は主食にこだわった。まず100%の白米は食べない。薩摩芋、南瓜、蚕豆の炊き込みご飯

 が好き。高級食材、牛肉も普段食べない。晩年、肥満と糖尿病のため、肉料理も制限した。仕事

 の時間が普通の人と違うから、食事もお腹が空かないと食べない。一日二食しか食べない。毎日

 の焼き芋とトウモロコシ一本は最後まで続いていた。

林彪の不幸

 毛沢東の人間性

・毛は部下をさまざまな方法で、人をいじめるのを無上の楽しみとする男であった。方法は告発摘

 発箱、相互密告制度、医療拷問制度で自分の保身をはかった。

・中央の幹部には警備員をつけたが、それは毛のために彼らの行動を監視させるためであった。

・中央の幹部には美人秘書をつけたが、毛のために彼らを見張らせるためであった。

・毛の後継者「林彪」が毛の暗殺を企てた時、林彪の息子は毛から派遣された美人秘書を抱いて寝

 た時に秘密を漏らし、毛に発覚し、父母ともに逃亡途中に事故で死亡。

・中央幹部の邸にはメイド、コック、管理人、看護婦、運転手が毛から派遣され報告されていた。

・党内NO2に劉少奇を据えながら、最後は政策の相違と言い迫害し牢獄送りし、暖房もないコン

 クリートむき出しの部屋に幽閉し、殆ど放置し死に至らしめた。国民や国外にはほぼ秘匿され、

 外部からは生死不明の状態が続いた。

 

・建国50年、1999年発表はインフラ、ダム、発電所、航空、貿易、産業、どれもプラス面ばかり

 を発表し、マイナスの天災、人災、大飢饉、粛清は発表していない。

・1960年頃、毛の政策失敗で2000万人以上が蛾死した。農村では人肉を食べていたとの記録が

 あるそうだ。同じく共産国のソ連でも蛾死が多かった時、人肉を食べていたとある。何れも共産

 主義の政策失敗である。

 

・毛沢東の圧政は目を覆うばかりであるが、現代の中国では毛沢東を神格化している。毛沢東を神

 話にし、美化して世界の中国感を良い方にしていると云われる。要は過失を取り繕い、過ちをひ

 た隠し人々の目を背けるしかないと云われている。

 趣味

・毛沢東は水泳が大好きで、プールに複数の女性と共にはしゃぐのが好きであった。

 

・1958年に北京で行われた毛沢東とフルシチョフの会談の2日目は、プールの中で行われた。

・幹部の一人康生は、毛沢東の春画集めに多大な貢献をした。康生は江青を毛沢東に引き合 

 わせた人物であり、その後も毛沢東の踊り子達を調達し続けた人物でもある。

 

・毛沢東はとてもタバコ好きで、70年代初めの頃は葉巻タバコも吸っていた。またお茶を飲むこ

 とも主席の趣味の一つだった。

​毛沢東と江青、 毛沢東と部下

日常生活

・部屋にいる日常はパンツをはかず、ズボンやパジャマだけであった。

・毛沢東は風呂が嫌いであった。お抱えの医者が体をよく洗って清潔にして下さいと云うと、大事

 な所は女のアソコで始終洗っているから大丈夫だと答えた。

 

・晩年になりやっと寝巻きを着て寝るようになったが、それまでは裸で寝ていた。

・毛沢東の生活習慣は普通の人と違う。朝食を食べたら、三、四時間寝てから、昼から仕事で、

 毎日朝まで20時間仕事をしていた。時には30時間、40時間も仕事することもあり、周囲の従業

 員もけっこう大変であった。

左から劉少奇、朱徳 、周恩来

​左から陳雲、林彪、鄧小平

             毛沢東の側近

・劉少奇~毛に次ぐNO2であったが文化大革命の中で毛により失脚させられる。

・朱徳 ~元首(行政の長)、敵の多い毛沢東にあって、終生変わらぬ友情を保った。

・周恩来~首相、毛の信頼が厚い。毛体制で生き延びた一人。

陳雲 ~中共八大元老(中国共産党長老の一人。毛体制で生き延びた一人。

・林彪 ~毛主席の後継者に指名されたが、政争に敗れソビエトに亡命途中飛行機事故で死亡。

 

・鄧小平~毛沢東後の後継者、毛体制で生き延びた一人。市場経済導入で現代中国の基礎を築く。

 

・彭真 ~文化革命で失脚したがその後復権、毛体制で生き延びた一人。国会議長。

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 文化大革命

 1966年~1976年、中国内で10年間に起こった社会的騒乱。名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治社会思想文化改革運動だった。

 

 実際は毛主席が大躍進政策の責任を取り辞任していた。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、民衆を扇動して政敵を攻撃させ失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。

 

 (大躍進政策とは、1958年から1961年までの間、中華人民共和国が施行した農業工業の大増産政策であり、毛沢東は数年間で経済的にアメリカ合衆国イギリスを追い越すことを夢見て実施した。しかし結果は、過大なノルマによる中国経済の大混乱と、推計3,000万人から5,000万人の餓死者を出す大失敗に終わり、毛沢東は生涯でただ一度の自己批判を行って、国家主席を辞任した。)

 

 最初に改革運動に呼応したのは高級幹部の子弟らによる紅衛兵(全国的な青年学生運動)であったが、その目的は自分たちの親に責任が及ばない事の参加であったが、後に粛清された。

 

 文化大革命の指導者は毛沢東、林彪、4人組が中心であった。

4人組

中華人民共和国文化大革命を主導した江青張春橋姚文元王洪文の四名をいう。

 

江青~毛沢東の死後逮捕、投獄され、死刑判決。無期懲役に減刑ののち、北京の居住地で自殺した。

       元女優。多くの男性と結婚、離婚、不倫を重ね、毛沢東と不倫後に結婚。悪女として名高い。

 

張春橋~逮捕、党籍剥奪、政治権利の剥奪、胃癌のため88歳で死去。

 

姚文元~懲役20年・政治権利剥奪5年の判決、糖尿病により74歳で死去。

 

王洪文毛沢東の寵愛で党副主席。毛沢東死後党籍を剥奪、終身刑の判決、肝臓疾患により獄中死

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