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 2017年6月、常夏の楽園、星の形の白砂が彩るビーチ、雄大に広がる青い空、息をのむようなグラデーションの夕日、美しい自然にも恵まれ、太平洋にぽかりと浮かんだ様な島・・・

いくつもの形容詞がつく、南太平洋のグアム島にリゾートバケーションを計画した。

 

 グアムと言えば、日本人ならば必ず思い出すであろう横井さん。どの様な環境か?

食生活は?そしてサバイバルな生活とは? 

 

 そして敗戦に至った日本の足跡をたどってみたい。

出発 成田→グアム

日本の主要都市からグアム路線がある、わずか3.5時間の近さ。

右図は、世界大戦の頃の日本の領土、無謀な戦いをした結果敗戦に・・・

オーバー・ブッキングで乗客を引きずりおろしたあのデルタ航空に乗ってしまった。

でも飛行時間は3.5時間。だが、機内食は最悪で質素な弁当でした。でもビール・ワインはタダでした。

​ 観光の街グアムは飛行場も綺麗、日本人が多いためか空港内に一歩入ると横井さんの案内標識がすぐ目に付いた。

ホテルと周辺

ホテルの近くにはスーパーが多数ある。お酒コーナーには各国のビールやワイン、そして日本の酒や焼酎迄が並んでいある。

   

                グアムの歴史
 

太平洋にあるマリアナ諸島南端の

・グアム島に人類が住み着いたのは紀元前3000年~2000年頃で、東南アジア系民族チャモロ人マレーシアインドネシアフィリピンから航海カヌーに乗って移住してきたことに始まると考えられる。

1521年にポルトガルの探検家マゼランがヨーロッパ人として初めてグアム島に到達。スペインの領有を宣言し植民地となる。

1898年にアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争にアメリカが勝利し、植民地となる。

1941年12月8日太平洋戦争大東亜戦争)が勃発。日本海軍真珠湾攻撃の5時間後(日本時間午前8時30分)に、グアムへの航空  

 攻撃を開始し、2日後に日本軍がアメリカ軍を放逐し、島名を「大宮島」と改名して日本領土とし、その後2年7か月にわたり占領した。

1944年7月にグアムの戦いアメリカ軍が奪還した。以後アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を拡張し、戦争終結までの間日本

 土への爆撃拠点として使用した。

1970年代以降は日本からの観光客を中心とした観光地リゾート地として発展を遂げている。

・米軍の基地関連産業とアメリカ政府からの補助金、観光業、農業漁業が主要な経済基盤である。

・国別観光客は 日本~46%、韓国~39%、アメリカ~5%、台湾~2%、中国~1.2%、フィリピン~1.5%。

グアムに咲く花

マリーン・スポーツ

​ 観 光

      平洋戦争国立歴史博物館

 太平洋戦争国立歴史博物館(太平洋戦争記念館 ビジターセンター)は 、第二次世界大戦中の旧日本軍の資料や戦争中のグアムの歴史を、音声と映像でわかりやすく展示した施設。

 博物館前には旧日本軍の黒塗りの潜水艦が展示されている

日本の二人乗り潜水艦を説明する日本人ガイドは28年前からグアムに居住。

      ガアンポイント

  ガアンポイントとは、太平洋戦争時の日米の激戦地跡で、旧日本軍の大砲が残っていたり、米軍の上陸に備えて日本軍が作ったトーチカや、岩壁に銃撃戦の痕跡があったりする。

​沖にいるアメリカ軍が撃って来た銃の跡が岩に残る

この半島のむこう側からアメリカ軍が上陸してきた

                    スペイン古橋

 スペイン古橋は、スペイン統治時代の1785年に架けられた、長さ約11m幅約4mの小さな眼鏡橋で、アメリカ合衆国史跡記念物の一つに指定されている。

 貿易船の停泊で栄えていたウマタック村と首都ハガニアを結ぶ道として造られたもので、当初は木製だったものが1800年代に石灰岩で造り直されています。

 また、橋が水面に映るとちょうど眼鏡のように見えることから、スペイン古橋のような石造2連アーチの橋は「眼鏡橋」とも呼ばれている。

        ソレダッド砦

 

 ソレダッド砦はグアム南部ウマタック村にある50m四方の白い石組みの塀に囲まれた砦。

ソレダッド砦は交易港として発展していたウマタック村や交易船を海賊から守るため築かれ活躍してきた。

 ウマタック湾は1521年に探検家マゼランが上陸したポイントで、この湾はスペイン統治時代、南米のサンディエゴからフィリピンに至る太平洋上で唯一の中継地として多くの交易船が行き交い、ウマタック村は交易港としてグアムで最も栄えた町に繁栄してきた。

探検家マゼランの碑

              タロフォフォの滝

 タロフォフォの滝は、グアム南東部のタロフォフォ湾から数キロ山奥に入ったところにあるグアム最大の滝。

 タロフォフォ川の支流にあるこの滝は3段で形成されており、1番大きな滝は、幅約20m、高さ約9mほどある。

横井ケーブ(タロフォフォ滝の敷地内)
 

 「タロフォフォの滝」をさらに300mほど奥へ進むと、「横井ケーブ」がある。

このケーブは太平洋戦争時代から約28年もの間、元日本兵だった横井庄一さんが終戦を知らず潜伏生活を送っていた有名な洞穴である。現在、展示されているものはレプリカとなるが、横井さんの当時の生活ぶりをうかがうことができる。

​ この川の奥、上流に横井さんの洞窟の一つが発見されている。洞窟は何か所もある。

                  グアム歴史館

 

 タロフォフォの滝のそばにグアム歴史館という小展示がある。

 グアムの歴史は被支配者としての歴史である。これは今も変りがない。
 軍用施設に利用されている土地は間違いなく、先住民である彼らが生きて行くために所有していたものである。

 彼らの不幸のはじめは大航海時代。
マゼラン艦隊を派遣したスペインが植民地化を進めた。そして、財産や女性を取り上げ、男は奴隷として重労働をさせたということである。やはり当時のスペインは宣教師を派遣し、カトリックを布教教育を施し、先祖崇拝は禁止とした。

 その後スペインの統治は400年間続き、アメリカがやってくる。”白は良い。茶色はダメ”と劣等感を植えつけ、英語を強制的に使用させ、学校でチャモロ語を発した生徒は本を頭にのせて長時間立たされたということである。

 太平洋戦争が始まり、今度は日本がグアムを統治する期間となる。とはいえ、大日本帝国も欧米同様とやることは母国語の押し付けと強制労働であった。
 日本語学校ができ、子供たちへの教育と大人たちへの教育が始まる。とくにお辞儀の仕方をものすごく熱心に行ったようだ。
 皇居の方向を向き、”私たちは陛下のために真面目に働きます”と最敬礼を毎日行ったという年長者の体験談がある。

 「日本の今の世代が戦争の責任を果たすのは好ましくないし、日本を許します。しかし、されたことは忘れません。」とグアムの昔の人はいう。

スペインがやって来た

アメリカがやって来た

そして日本が来て、戦争に敗れて多くの兵が切腹

​横井さんコーナー

                戦争に翻弄された横井軍曹の一生

・大東亜戦争終結から28年目、アメリカグアム島で地元の猟師に発見された残留日本兵として知られる。

1915年(大正4年)、愛知県にて長男として生まれる。

・小学校卒業後は約5年間、愛知県豊橋市の洋品店に勤務。1935年(昭和10年)、満20歳のため徴兵検査を受け帝国陸軍に入

 営、4年間の軍務の後に洋服の仕立て屋を開いた。

1941年(昭和16年)には再召集され、満州を経て1944年(昭和19年)からはグアム島に配属される。同年7月にはアメリカ軍が上

 陸し(グアムの戦い)、8月に同島で戦死したとされ戦死公報が届けられた。

・1945年、日本軍の無条件降伏が発令されたことは知らされなかった。

 横井軍曹らはジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の1972年(昭和47年)1月24日

 ビウナギをとるためにをしかけに行ったところ、現地の鹿の猟をしていた住民に遭遇、同年2月2日に満57歳で日本に帰還

 した(なお、撤退当初から横井軍曹には2人の戦友が居たが、発見の約8年前に死亡している)。

・帰国の際 「恥ずかしながら帰って参りました」 がその年の流行語となった。

・その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全

 国各地で講演。

1974年(昭和49年)7月、第10回参議院議員通常選挙(全国区)に無所属で立候補したが落選。

 マスコミの扱いも次第に終息し、満82歳で心臓発作を起こし死去した。

                      サバイバルな生活

・主食は、パン(木)の実を中心とした木の実であったがなかなか手に入らない。タンパク質は、野ブタ・ネズミ・トカゲ・牛・鹿など

 からとった。

・ネズミは、調理できない時は生で食べることもあったが、焼くと簡単に皮がむけ天日で乾燥させて保存食にも便利であった。山

 猫を、食べたこともあった。猫は肉が少なく、猫が寒がりなのが理解できたという。
 蛇は少なく、毒蛙から慎重に毒を抜いて食べることが多かった。川のエビは、殻をむいて生で食べたが、大変な美味だったとい

 う。川のウナギも、竹で作ったカゴでとった。

・タロホホ村が近くにあり住居があったが、村人の食糧には決して手を出さなかった。これが、長期間発見されなかったポイントに

 なる。火を起こすレンズを失った後は、細工した竹をこすりあわせて火をおこし、火種を慎重に灰に保存していた。コプラ椰子か

 ら油をとり(ココナッツオイル)、天ぷらを揚げることに使ったり、灯油に使ったりしている。

・衣類は、元洋服の仕立屋だった本領を発揮した。木の皮をはいでアク抜きして繊維を作り、手製の機織り機まで作って布にし

 た。その後縫い上げて、半年がかりで完成させるという本格的なものであった。

・帰国後披露された道具類も、人々をうならせる見事さであった。しかし、採ればすぐ腐る食糧は常に不足し、猟をした痕跡も常に

 消さなくてはならなかった。調理のために火をおこすのも、人目につかない真夜中に穴の中で行うため耐えられない暑さと息苦

 しさであった。

・内臓を壊し、胃潰瘍などで何度も生死をさまよう。なにより、発見されるという恐怖感で、28年間一瞬たりとも熟睡したことがな

 く、独り言も自分に禁じたという。想像を絶する、過酷な生活であった。

樹脂を加工して作った洋服、縄紐、籠などなど、見事です。

サバイバルの見本の横井さん。

       ジーゴ平和慰霊記念公園

 ジーゴ地区の北東にかけては、太平洋戦争時に日米の激戦地となった地である。ジーゴ村にある「ジーゴ平和慰霊記念公園/南太平洋戦没者慰霊公苑」は、かつて大宮島(グアム島)を守備した南部マリアナ担当の第31軍とアメリカ軍が壮絶な戦いが行われたエリアで、旧日本軍司令部が全滅した地でもある。

 グアムは、1941年に太平洋戦争が勃発し日本が一時占領したが、2年7ヶ月後にアメリカによって奪還されることになる。当時、日本軍司令部を守備した第31軍の最高司令官だった小畑英良中将と最後まで残った数十人の将兵は、最後この地で自決することになった。

 戦没者を慰霊する高さ約15メートルの祈念の白い慰霊塔が建てられており、慰霊と平和の願いを表す合掌がデザインとなっている。周辺には仏陀を祀った小さな寺院、各部隊の慰霊碑、小さな資料館、また近くには防空壕(ごう)も残されている。

多くの犠牲者を出した沖縄県人の遺族達は、この入口で靴を脱いでから入りお参りをしたと言う。

               グアムの恋人岬

 恋人岬は、海抜123メートルの断崖に展望台があり、その周辺は公園のように整備されている観光スポット。

展望台からは海岸線や美しい海やきれいな夕日を見ることができる場所。

 恋人岬という名前の由来は、グアムがスペイン統治時代に、現地の美しい娘が結婚を迫るスペイン人から逃れて、恋人と永遠の愛を誓い髪を結びあってこの岬から身を投げたという悲恋伝説からこの名が付けられている。

ランチ・タイム

​グルメ

​トニーローマはやはり「スペアリブ」に限る。 美味しいですね~

カプリチョーザの「イカスミのスパゲティ」が美味

​グアムの動物

ヤシ蟹はグアムの珍品

​ ココバードは国鳥   ゲッコー(ヤモリ)は人気者

水牛は働き者

​街 並

中心街

​  チャモロビレッジ(ナイトマーケット) と 古代チャモロ人

​ラッテストーン(宗教施設や、石、建造物の土台説などがある)  聖母マリア大聖堂

グアムにはスコールがあり、1日数回の雨が降る。しかし3~5分で止み、すぐ晴れ間が広がる

​素晴らしいリゾート地

 旅を終えて・・・

 戦争の悲惨さと、横井さんの強靭な精神力がひしひしと伝わって来た旅であった。海や大自然を見ると何故人類は争うのか、疑問に感ずる。

 古代から、つい近世まで、そして現在も、人類が大自然を壊している。何処に行っても目をそむけたくなる。だがグアムの海は間違いなく透明に近いブルーであった。

 

                                     終わり

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