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 海外旅行を始めてから20年になる。出来れば190余カ国全てに行きたかったが、政情不安、危険地域その他で現在停滞中である。海外旅行で一番の楽しみの一つは食事であろう。そして知りあった仲間達と語り合いながら飲むワインである。

 世界で共通する酒はワインである。100カ国程のワインを飲み、ワイナリーを訪ねて歩いた。少しは知識なり味わいなどが理解できるようになった。勢い余り、ワイン・スクールにも通い、うん蓄、講釈、能書きの語りも覚えた。

 出来ればこの先、機会があればフランスの有名10大ワイン産地を訪れ、のんびりファームワイナリーの葡萄畑を歩き、ティスティングをして優雅な時間を楽しみたい。

 先ずは、旅行と同じく予習・復習が楽しみを倍加させるので、関連本を読み、フランス・ワインの歴史をひもとき、そしてフランス・ワインは何故人気なのかを探ってみたい。

 ほんの一部をここにまとめてみた。

 ワインと言えばフランス!
 

 ワインの代表的産出国はフランスであり、特にボルドー、ブルゴーニュ、シャンパーニュが世界のトップクラスである。

 ぶどう栽培面積は約85万8000haでスペインに次いで第2位だが、ワインの年間生産量は堂々の1位である。

 

 もちろんそれは量だけのことではなく、品質面においても世界最高水準として認められ、常にトップの座に位置している。

フランスはヨーロッパで最大の食糧生産国

​     フランス・ワイン生産地MAP

フランス・ワインの10大生産地
 

1. ALsace (アルザス)

  フランスとドイツの文化が育んだ品のいい辛口白ワイン産地。

 

 

2. Champagne (シャンパーニュ)

  王侯貴族に愛された発泡酒の王様は、いつの世も変わらないシャンパン。

 

 

3. Loire (ロアール)
  フランス・ルネサンスの華とも言える古城が点在し「フランスの庭園」と愛称され、ひ
しめく葡萄畑が多彩なワインを生む 。


 

4. Bordeaux & Bourgogne (ボルドー)

  ワインの約4分の1に当たる膨大な量のワインを産出する。酒から最高級ワインに至るまで幅広く、多彩な銘醸地域である。常にワインの世界に君臨する。

 

 

5. Bourgogne(ブルゴーニュ)

  ボルドーと共に、フランスの誇る大銘醸地。夏は日照量が多く冬は寒さ厳しい大陸性気候はブドウ栽培に最適で、素晴らしいワインが生まれる。

 

 

6. Jura & Savois (ジュラ・サヴォワ)
  「山のワイン」と呼ばれ、アルプス山麓の畑が育む異色のワイン産地。

 

 

7. Rhone (ローヌ)
  古代ローマ文化と葡萄栽培を伝えた交易路が造る多彩なワイン産地。

 

 

8. Provence (プロヴァンス)
  輝く太陽、紺碧の海、気取らない人生を楽しむ風土が造るワインの産地。


 

9. Languedoc & Loussillon (ラングドック・ルーション)
  量産地だが、近年革新の風が吹き荒れている。又、カタロニア文化の匂い立つワイン産
地でもある

 

 

10. Southwest (南西地方)

  ボルドーよりも古い歴史を持ち、近年品質向上目覚しく、個性的なワインを造るワイン産地。

時代背景
 

 フランスは第一次世界大戦第二次世界大戦主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており、この時は領土の一部が占領されただけにもかかわらず、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。

 

 第二次世界大戦、フランスはドイツからあらゆるものを搾取強奪された時代だが、ワインも例外ではない。年に3億本以上がドイツに運び去られたという。ドイツ兵から隠す、騙す、抗うなど、とにかくあらゆるものが試され、命懸けでワインを守るために実行に移された。ワインを諜報活動・抵抗活動にすら利用したという。

 

 第一次世界大戦も第二次世界大戦もフランスは敗戦国にもかかわらず、いつのまにか戦勝国になっている。連合国の一国ゆえ最後は戦勝国になっているに過ぎない。

 

 フランスは、戦争の弱さは折り紙つきといえる。そもそもナポレオン戦争でも最後はぼろ負けしてパリが占領されたのに、いつの間にか戦勝国枠に入っていた。

 

 フランスが戦争に負けた第一の理由は、政権が変わり過ぎてまとまらないだけの事である。もう一つ、やはりフランスはラテン系ゆえ、バールでワインを飲んでシャンソンでも歌っているのが似合うのである。ゲルマン民族のドイツやイギリス、スラブ系のロシアには勝てないのである。

       フランス・ワインの略史

グルジアで7000年から5000年前に醸造され発祥地のひとつとされる。またアルメニアでは約6000
 年前のものとされる世界最古のワイン醸造所跡が発見されている。

 

・6世紀、ローマ・カトリック教会の持つネットワークで、ワインをフランスに根付かせた。司教や 
 修道院はワインがキリスト教の祭祀や領主への饗応・巡礼者への世話などに必要とされていたこと   
 もあるが、修道院の財政基盤のために葡萄栽培がはじめられた。

 

・16世紀、フランス革命後に居酒屋、カフェ、レストランが出来てワインが市民に広く飲まれる。

・グルジアは黒海とカスピ海に挟まれている。      グルジアはワインが壺で出てくる。

  

                    ・

 

                    修道院

・19世紀、害虫フィロキセラの被害で20年間苦しむ。

・1935年、A・O・C(原産地統制呼称法)が制定され、優れた産地のワインを保護、管理することを

 目的として 政府の機関によって諸規制が定められラベルに表示する事でフランス・ワインの一層の
    人気定着となる。

フランス・ワインの試練
 

・1860年から30年にわたって、フランスのワイン産業は壊滅的な打撃を受けている。

 各地でブドウの葉が変色し根が腐食していくのだが、原因がわからない。中世の黒死病に

 も似たスピードで被害が拡がっていく。あせるフランス農務省は科学者を動員する一方
   で
解決案を提案してくれた人には、金貨で30万フラン(現在の価値で3億円)を与える
 と
いう公示までだしている。

 

・犯人は害虫フィロキセラ(ブドウネアアブラムシ)であると特定したのは、フランス南西

 部の町モンペリエの植物学者ジュール・プランションであった。フィロキセラは肉眼では

 見えないほど小さ黄色の虫である。キャンベルによると、ブドウの木の根や葉を侵食する

 害虫の繁殖力は驚異的で,メス一匹が8か月で2560億匹まで増殖したというから、ま

 さに天文学的だ。

 

・害虫がどこから来たかを研究、それは米国産の苗木154本に付いてきたフィロキセラが

 元凶であることを突止める。フランス原産の木は死滅あるいは瀕死の状態だが、米国産の

 ブドウの木は元気溌剌の意外な事実を発見する。米国産のブドウの木には、この害虫への

 免疫性があったのである。

 

・その結果、米国の苗を台木にして地元の苗に接木する方法である。1890年代になって

 カリフォルニア州やテキサス州から苗木の大量輸入がはじまり、フランスワインは蘇生し

 たのであった。皮肉にも、フランスが米国から輸入した苗木の大部分は、昔フランスから

 運んだものの子孫であった。

世界大戦による被害と試練

 

・フランスの葡萄畑は両大戦で瀕死状態であった。畑は塹壕で分断、大砲や迫撃
 砲の
銃弾で吹き飛ばされ、地面には巨大なクレーター、一番ひどいのは化学
 爆弾の薬剤
が土にしみ込んで汚染されていた事である。

 

・ブルゴーニュの生産者はドイツ軍が侵略する前に、地下貯蔵庫の壁の背後に一
 番貴
重なインを隠すことにした。そして洞窟の蜘蛛を集めてその前に置くと蜘
 蛛が巣を作
りだし壁が段々古びて見えるようになり、ワインドイツ軍から守
 られた。

 

・アルザス地方はフランスとドイツの狭間にあるため、紛争が起きる度に、フラ
 ンスから
ドイツへ、またフランスへ、そしてドイツへ、大戦後ようやくフラン
 スへ戻った。

 

・フランスとワイン、軍隊に送られる物資の中で、いちばん待ち焦がれられ、あ
 りがたが
られるのはワインであった。フランス兵は支給されるワインのために
 危険を冒し、銃弾
の雨をかいくぐり、軍警察にさえ反抗した。彼らにとってワ
 インは弾薬と同じくらい重要
だった。ワインは兵士の士気を高め、健康を増進
 させる刺激剤だった。つまり、ワイン
は勝利に欠かせないパートナーだったの
 である。

 

・1939年の第一次世界大戦でフランスは降伏。フランスの政治は浮足立ってい
 た。歴
史家は指摘した。

 「だれひとり責任を認めず、だれもが他人のせいにした。普通の兵士は将校
 を、参謀
幕僚は政府を非難し、右翼の政治家は左翼を、左翼は右翼を非難し
 た。当時の政権
は人民戦線の閣僚の責任だと言い、その閣僚は軍部のせいだと
 主張し、多くの人々
は共産主義者の、共産主義者は国内のファシストの、ファ
 シストはユダヤ人のせいだ
と非難した。

・フランスの元首相エドワ―ルは「フランスのもっとも貴重な宝石、それはワイ

 ンであった。

・ドイツ軍がフランスのボルドーに到着すると、生産者のミエール家はどこかほ

 かに住む場所を見つけるようにと命じられ追い出された。

 

・フランスの多くのワイン生産者は、侵略してきたドイツ人が各地のワインセ
 ラー(貯蔵
)で略奪の限りを尽くすのを黙って見守るしかなかった。

 

・葡萄畑はドイツ軍による小銃の射撃場となった。シャトーの塔から下がってい
 る装飾
入りのは射撃練習の標的になった。

 

・ナチス・ドイツのNO2とNO3のゲーリング元帥とゲッペル宣伝相ワインに
 関する知
が豊富でフランスの高級ワインばかり略奪して飲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・ナチス・ドイツの最高幹部ヒットラー一人がワインに興味を示さなかった。あ
 るフラン
ス・ワインの名品を一口味わったあと、ヒットラーはそれを押しのけ
 て「ただの酢と少し
も変わらないじゃないか」と言ったという。

 

 「ワイン総統」

 
 フランスからのワイン輸入執行官(ワイン仲買人)としての彼らの任務は、良質
 のフラン
ス・ワインをできるかぎり大量に買い取ってドイツに送る事で、ドイ
 ツはそれを海外に
売りさばいて得られる巨額の利益をナチス・ドイツの戦争費 
 用の一部にあてるのが仕
事であり、彼ら戦争前からドイツ人ながらフランスの
 生産者と商売上の付き合いを生
かしながら仕事をしていたため「ワイン総統」
 とフランスからは揶揄されていた

 

 ワイン総統はフランスのワイン生産地に一人づついて、彼らは以前から生産者 
 と親し
く商売していたために、フランスやドイツ両方に問題が発生しないよう
 に努めていた。

 戦争終了を見越した後の人間関係を重視していたのである。

 

・ワイン総統の中にはドイツ人ながら、ナチス・ドイツに心の中では反抗する者
 もいた
から生産者に対しては紳士的で強権を発しなかった。戦後の商売のこと
 を考えてのこ
とでもあった。

 

・フランス北部のシャンパーニュ地方ほどひどい略奪行為があった場所は無く、
 占領当
初の数週間だけでも二百万本近いシャンパーニュがドイツ兵に持ち去ら
 れた。

 

・生産者の多くはラベルに「国防軍御用達」と印刷してボトルに貼り、中身は質
 の落ちる
ブレンドを敵に掴ませた。

 

・ドイツに送られたワインは3億2千万本を超えていた。

 

・第二次停戦の時は、自分の最上級のワインを菜園の豆やトマトやキャベツの下
 に埋
蔵したり、渓谷の自然の洞窟のなかに隠し、雑草や灌木を植えて入口を隠
 した。

 

・ドイツ兵が飲むワインの瓶の中には、強力な下剤を入れて復讐する生産者もい
 た。

 

・ナチス・ドイツのNO2、ゲーリングはフランスの自然の恵みを徹底的に搾取
 し始めた。

    小麦、チーズ、野菜、果物、シャロレ―牛、そしてワインが各名産地から、こ
 の元帥の
個人用倉庫に運び込まれた。

 

・更にゲーリング元帥は、成人が必要とするカロリーの半分の、1日に1200キロ
 カロリー
でやって行くべきだ。そして高齢者は日に850キロカロリーと制限し
 た。これにはフラ
ンス人は憤激した。

 すると多くのフランス人は抗議した。「年寄りや病人にはワインが必要だ。ワ
 インはそ
ういう人たちにとってすぐれた食品なのである。ワインは消化しやす
 く、ビタミンやミネ
ラルの極めて重要な供給源である。ワインこそこれまでに
 発明された最高の長寿の
霊薬なのだ」

 

・フランスは戦争で統治を受けていた時、依然としてヨーロッパで最大の食糧生
 産国
だったが、統治されている現在、いまや栄養の摂取量は最低になり、だれ
 もがそれを
実感していた。

 

第一次世界大戦は1914年~1918年であるが、フランスは連合軍として戦勝国で
 はあ
るが、その戦死者の数では175万人と第2次大戦の戦死者数の3倍であっ
 た。

 

 第二次世界大戦時の、ナチス・ドイツによるフランス占領は1940年~1944年
 までであ
る。
 この頃のフランスは武器や戦車等で他国より劣っていたのが原因であった。

 

・1940年はフランスにとってナチス・ドイツによる占領とは別に、もう一つの
 占領があっ
た。ジャガイモの害虫による食糧難であった。殆ど食べるものがな
 く、飢えを防ぐため
にあらゆる物を食料とした。

 ワイン生産地のボルドーではがいなくなった。地元の新聞社発表では「鳩
 は五千
羽から八十九羽へ激減した」と報道した。地域によっては池の金魚まで
 食べてしまっ
た。

 

・占領されていた頃、節酒運動をせざるを得なかった。フランスの歴史上初めて
 飲酒の
出来る最低年齢が14歳に定められた。

 

・フランスが戦争に負けた原因のひとつは酒場の数が多すぎることにあり、ドイ
 ツでは
国民270人に一軒なのに対して、フランスでは80人に一軒の割合で店が
 あった。

 

・ドイツの占領下、ドイツはフランスのワイン生産者に対し、ドイツ軍の燃料調
 達のため
に、ワインの樽を要求した。抵抗する生産者に対してはドイツ軍が、
 ワインが入ってい
る樽に灯油をグラス一杯づつ流し込んでいった。そうすると
 樽は灯油の臭いで使えな
くなるからであった。

 

・ある時期の食糧難、山野にも食べ物が無くなり突然、が葡萄農園をさ迷う事
 にな
り、狼の被害が人間に及ぶことを恐れた。しかし、狼が葡萄の葉を食べる
 と酔っ払っ
て朦朧として周辺から姿を消して助かった。

 

・ワイン生産者の多くがドイツの捕虜となり戦争捕虜収容所に長年収容された。
 ユダヤ
人は抹殺されたが、フランス人まではその害は及ばなかった。しかし食
 事は劣悪で数
年で72キロあった体重が、いまや48キロになっていた。

 

・収容所の中は、コンクリートむき出しの三段ベッド、マットレスの代わりにカ
 ンナくず、
毛布が一枚だけで冬を越す。

 

・収容所にいるワイン生産者の楽しみは各地のワイン生産地区から来ている仲間
 とワ
イン作りの情報交換をする事であった。たまに配達される家族からの手紙
 には、留守
中の葡萄畑の管理がうまくいかない事の悩みばかりで、それを読ん
 で涙するばかり
であった。

 

・収容所の所長はゲシュタポ(ドイツの秘密警察)を恐れていた。泣く子も黙るゲ
 シュタポ
はドイツ人でも恐れる。所長は所内で不正にワインを横流ししてそれ 
 がゲシュタポに
見つかるのを恐れていた。ワイン生産の捕虜は4000人もい
 た。ワインが飲みたいの
一心でその所長を「ゆすった」。

 

 そしてワインを留守宅からそれぞれ送ってもらい、ささやかなワインパーティ
 を開い
た。

 ワインボトルを7人でたった1本であった。一口か二口しかない量だが、皆がふ
 る里を
想いながら飲む。一生忘れられない思い出となった。、

 

・ドイツの戦争捕虜収容所にはフランス人でも150万人がいた。

 

・1944年、連合国のノルマンディ上陸作戦のあと、ドイツ兵はフランスから
 撤退しだし
た。「ドイツ人の大脱走」と揶揄された。ドイツ軍の兵士は、ト
 ラックでバスタブ、ビデ、
絨毯、家具、ラジオ、おびただしいほどのワイン
 ケースを略奪して逃げていく。

 

・ドイツ人が撤退する時、エッフェル塔や凱旋門や重要な記念碑は破壊しなかっ
 たが、
パリのワイン卸売市場を狙った。ドイツ軍機がワイン・センター上空か
 ら数発の爆弾を
浴びせて破壊したのである。

 

・アメリカ兵がフランスに入って来た時は、歓迎して大量のワインでもてなし
 た。

 

・フランスに連合軍の解放軍が来るとワインのボトルや樽が持ち出され、住人達
 は乾杯
しながら、歓呼の声で解放軍を迎え、歓声は40キロ先から聞こえたと
 いう。

 

・連合軍が怒涛のように進撃すると、アルザス地方のドイツ軍はワイン生産者の
 貯蔵
庫からトラックに積めるだけ積んで、飛行場に行く。しかし積み過ぎて飛
 行機は一機
も飛べなか ったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


・ドイツとフランスの国境近くヒットラーの山荘がある。べルヒテスガーデン
 ある。アメ
リカ兵とフランス兵が我先にと行軍した。そこは財宝の山であっ
 た。10数カ国の貨幣
金塊、値段の付けようのない宝石類、名だたる芸術作
 品、高級車、さらにフランス
人なら喉から手が出るにちがいない何十万本とい
 う世界最高級ワインであった。すべ
盗まれたものであった。

 

・フランス人のワイン仲買人の一人は戦争中に、ドイツに便宜を図り利益をあげ
 たた
め、資産を国から没収されボルドーで商売を禁じられた。更にフランス人
 としての市民
権も全て剥奪された。高い倍賞であった。

 

・捕虜収容所から帰ったワイン生産者の一人、収容所で「ワイン・パーテイ」を
 催した彼
娘を最後に見たのは1才の誕生日であった。解放されて家に帰ると
 娘は7才の少女
になっており、恥ずかしそうに母親のスカートの後ろに隠れて
 いた。しばらくしてその
娘が慣れてきて、父親に「いっしょに遊ばない?」と
 言われた時、父親は嬉しさのあま
り泣き出した。その父親はやがて住んでいる
 町の市長になったという。

 

・収容所から帰国した生産者のワイナリーのワインは、樽の中に寝かしたままで
 あっ
た。瓶に入れ換えなければならなかったが、その瓶はドイツ軍が破壊して
 いた。その
結果保存していたワインは全滅であった。また1,944年の天候は定
 まらず、寒波やひ
どい霜が降り多くの栽培者が被害を受けた。

 

・戦後のワイン生産者の被害を救ったのは、ドイツ軍が押し寄せてくる前に、地
 下貯蔵
庫の壁に隠して蜘蛛の巣でカモフラージュしたワインが残っておりその
 年の生活を支
えてくれた。

 

・戦後のワイン生産者の家族は150万人で、ワインで生計を立てていた。しか
 し戦後の
廃で費用の膨大さは大変なものであった。トラクター、農機具、施
 設の修繕、肥料、
葡萄の木の植え替え等々であった。

 

・戦争が終わり、生産者の家族が帰る度に皆が集まり、ワインをあけてお祝いが
 何日も
続いた。

 

・あるワインセラー(ワインの貯蔵室)を持っている生産者の被害である。ボト
 ルは全て
っていたが中身は空っぽであった。ドイツ兵が全て飲みほしていた
 のである。そし
メモが残されていた。

 「拝啓、われわれ一同、心からあなたに敬意を表する次第です。あなたのワイ
 ンの好
みは非の打ちどころがありません!」

 

・フランス人は「食」を重視するという。ファスト・フードの国アメリカとは対
 照的で、フ
ランス人は間食を殆どしないが、むかしから食事には時間をかけ
 る。その時にけっし
て欠かせないのがパンとワインであり、そしておしゃべり
 の様である。

 

 フランスでは、食卓の会話を途切れさせないのが女主人の責任であり、無言で
 食べ
るのは失礼とされる。(日本人とはあまりにも文化の違いである)

 

・フランスワイン生産の規模で最大地区の、ボルドーはフランスのAOC(原産
 地統制名
称)ワインの約4分の1に当たる膨大な量のワインを産出する。

 ボルドー地区だけでも、12,500のワイン生産者、57の共同組合、400のネゴシ
 アン
(卸売業者)130の仲買人がいる。フランス全土にするとその規模は計り知れ
ない。

​ゲーリング元帥

​ゲッペル宣伝相

​ヒットラーとべルヒテス・ガーデン 現在は人気の観光地

​ フランス・ワイン農家の皆さん

​ ワイン発症の地 画像で見るグルジア

グルジアの民家レストランで、地元庶民が飲むワインをいただく

​WINERY KHAREBA ワイナリーを訪問

​    グルジアの首都トビリシ、高級レストランで赤ワイン、「クレオパトラの涙」を味わう

​  2013年、グルジア旅行の時に作成したホームページは下記

​ 

         「グルジア紀行」 

​      参考文献

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